徳島県火薬類保安協会

火薬と花火の起源及び日本への伝来

 火薬の起源については諸説がありますが、中国の秦の始皇帝が全土を統一した際に、北方民族・匈奴の侵入を防ぐために築いた万里の長城の要所要所に掲げた「狼煙(のろし)」として硝石を利用したのが始まりという説が有力です。その後、年代ははっきりしませんが皇帝が命じた不老長寿の薬を作ろうとする過程で、偶然に硝石を用いた黒色火薬が発明されたと言われています。

 

 やがて、中国では火薬を武器としての利用したり、花火として発達していきました。中国で発明された火薬や花火は、やがてシルクロードを通りイスラム諸国を経て、12世紀後半にヨーロッパへと伝わります。
 ルネサンス期のヨーロッパでは、キリスト教の宗教行事に花火を利用することで、お祭りを盛り上げるのに効果的であったことから、都市の発達や商業資本の隆盛を背景として、ヨーロッパ全域に急速に広がっていきました。
 16世紀にはイギリスのエリザベス1世がワーウィック城やケニスウォース城で大花火を楽しんだことや、17世紀のロシアのピョートル大帝がモスクワで大花火を開催し、花火研究所まで造ったなどの記録が残されています。

 

 ところで、日本で火薬や花火が伝来してのはいつ頃だろうか。?
 日本で初めて火薬が使われたのは、鎌倉時代中期の二度にわたる元寇(文永の役、弘安の役)で「蒙古軍」が使用した「てつはう」という火薬の武器であったと考えられています。 
 その後、16世紀に種子島に火縄銃とともに火薬の製造の技術が伝わります。このように、当初はもっぱら火薬は武器としての使用でした。織田信長が活躍した戦国時代、日本の鉄砲の数は、ヨーロッパ全体の数を凌駕するほどだったと言われています。
 火薬の平和的な使用として花火が登場するのは、戦国時代とも、江戸時代とも言われています。

 

 では、日本で最初に花火を見た人物は誰でしょうか。?
 慶長18年(1613年)イギリス国王ジェームス1世の使者が徳川家康に花火を献上したという記録や、同年に駿府城で家康が明の商人による花火を見学したという記録などが残っています。
 こうしたことから、家康が花火を最初に見た人物だとされていました。そして、このときの花火は竹筒から火花が噴き出すタイプのもので、家康の家臣がこの技術を三河に持ち帰ったことで、この地域で手筒花火が盛んになったと言われています。
 この流れを受けて、今でも愛知県の東三河地方や静岡県の浜名湖周辺では、手筒花火による大会が行われています。
 ところが、最近になって徳川家康よりも前の、天正10年(1582年)キリシタン大名の大友宗麟がポルトガルのイエズス会宣教師に花火を打上げさせ人々を驚かせたという記録や、天正17年(1589年)に伊達正宗が米沢城で唐人による花火を楽しんだという記録などもあるようです。
 こうしたことから日本で初めて花火を見た人物は、大友宗麟ではないかと思われます。

夏の風物詩”花火”のルーツは江戸時代の大飢饉

 夏の風物詩といえば花火だと言われています。全国各地で趣向を凝らした花火大会が開催されていますが、皆さんの中にも夏の夜空に輝く花火を心待ちにしている方も多いものと思います。
 しかし、夏は蒸し暑く、屋外には蚊が多くいます。一方、春や秋は夜も過ごしやすく空を見上げてもすっきりと気持ちが良いものです。しかし、花火が春や秋でなく、夏の風物詩になったのはなぜなんでしょうか。?
 そのルーツは東京三大花火大会の一つに数えられ、毎年7月最終土曜日に開催される「隅田川花火大会」にあります。
 それは、江戸時代、今から遡ること約300年前、亨保の改革(幕府財政の立て直し、目安箱の設置、町火消しの制度化)で知らる第8代将軍・吉宗の時代でした。
 亨保17年(1732年)、西日本一帯で長雨と冷夏により、収穫前の稲にウンカという害虫が発生し、稲作に甚大な被害がでました。『徳川実記』によると、飢饉による餓死者は全国で97万人にも及び、米価の高騰で困窮した江戸の民衆による打ちこわしなどの暴動も発生しました。
 当時の人々は、このような飢饉などの災厄は悪霊のの仕業と考えていました。
 そこで、将軍吉宗は翌年の亨保18年(1733年)5月28日、両国(隅田川)の川開きの日に「水神祭」を開催し、大飢饉で犠牲となった人々の慰霊と悪霊退散を祈願しました。その際に花火を打ち揚げたことが、現在の花火大会の由来になったと言われています。
 このように花火には、灯籠流しなどと同様に鎮魂の意味があります。花火大会が先祖や亡くなった人達の霊が帰ってくるとされるお盆の時期に集中しているのはこうしたことによるものです。

徳島の花火の歴史

 戦国時代から江戸時代にかけて、阿波国(徳島)でも火薬はもっぱら軍用の武器として使われていました。徳島県の勝浦川や那賀川沿の流域には火薬庫が設けられ、火薬も製造されていました。
 江戸時代に入り戦乱の世が終わり平和な時代が訪れると、火薬は次第に武器からそれ以外の用途にも使われるようになりした。
 花火もそのうちの一つで、これらの地域では花火業者が誕生し、職人達がより美しい花火を作るために試行錯誤し、競い合って発展させてきました。
 現在、徳島県内の小松島市や那賀郡、海部郡などで製造されている花火の中には、藩政時代から吹筒の技法が代々伝えられたものがあります。
 四国では徳島県が花火発祥の地と伝えられており、現在では、西日本有数の花火の生産地となっています。

花火の日

 第二次世界大戦終了後、日本を占領したGHQ(連合国総司令部)は日本の再軍備を恐れ、火薬の所持や花火大会の禁止を命令します。
 これは、花火といえども火薬であり、花火を許可することは、火薬の軍用化に道を開くとの考えがあったものと思われます。
 一方、GHQはアメリカの独立記念日には、特別に日本の職人に命じて、日本国内にあった米軍基地で花火を打ち揚げさせることもあったようです。
 花火の製造業者は、日本の伝統文化にもなっていた花火の製造及び花火の打ち揚げの復活を再三再四GHQに陳情します。日本の花火に魅了されていたGHQは、製造業者の訴えに耳を貸し、昭和23年8月から限定的ではありますが花火の製造と販売を解禁します。
 これに伴い、昭和23年8月1日、両国川開き大花火が復活することになりました。そして、この日を記念して、8月1日が花火の日に制定されました(昭和42年制定)。
 このほか両国川開きが旧暦5月28日であったことから、5月28日も花火の日となっているのです。